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坂本龍一氏インタビュー(同窓生シリーズ第77回 ウェブ版)

坂本龍一

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坂本龍一(さかもとりゅういち):22回生
1952年東京生まれ。東京藝術大学音楽学部作曲家卒、同大学院修士課程修了。
78年「千のナイフ」でソロデビュー。同年、 細野晴臣、高橋幸宏とイエロー・マジック・オーケストラを結成、日本発のテクノポップサウンドで世界を席巻。84年、映画「戦場のメリークリスマス」で英国アカデミー賞作曲賞を、88年には「ラストエンペラー」で米国アカデミー賞作曲賞を日本人として初めて受賞。音楽活動の傍ら平和問題・環境問題に関わる社会への提言も多く、地雷撤去運動、脱原発運動を始め、森林保全団体「モア・トゥリーズ」、東日本大震災で被災した学校を支援する「こども音楽再生基金」の設立に携わるなど、数多くの運動を率いている。

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新宿高校と聞いて最初に思い出すのは?

昔の古い校舎ですね、もう跡形もないんでしょうねえ。何とかの鐘ってのがあって、鐘の塔が残っていましたね。そう、戦艦三笠の鐘でしたね。六中健児の歌なんてのもあって、戦前の。質実剛健な校風で、また校舎もその校風に合わせたかのような校舎でした。

―「六中健児の歌」は今も健在です。当時の新宿高校はまだ軍国主義の名残を残したイメージだったのでは。

軍国主義は勿論嫌いだけれど、質実剛健の気風には好感を持っていましたね。僕らが祖父の世代から聞いていた戦前の旧制高校を思わせるような雰囲気とか、本当にまるで戦前の旧制高校のような格好の先輩もいて、まあ袴は履いてませんけれどボロ雑巾のような手拭いを腰に下げて、下駄で通っているような先輩も当時はいましたよ。

―今でも校則の中に「下駄履き」禁止という一文が残っています。

今でもあるの!?(笑)残っているわけだ。まあ、いまどきの子供は履かないでしょうけどね。

―六中健児の歌の話が先程出ましたが覚えてますか?

全然覚えてない。

―新宿体操は?

そういうのがあったことは覚えているけれど、僕は団体行動が嫌いでね。今でも嫌いだけど、そういうのはなるべくこっそり抜け出していましたからね。新宿体操ってのは今でもあるわけ?

―はい、館山合宿もあります。

あれもまだあるの!高校一年の時ですね、館山の臨海学校に行った時、なんか面白いことやろうって僕の発案で前衛劇をやろうということになってね。僕が演出家で、君は何やれ、君は何、とみんなに役割を振ってね。本を渡してこれを音読しろとか、ギターの上手い奴にはビートルズを弾いてくれとか。部屋を真っ暗にして懐中電灯を付けたり消したり、そういうような即興の前衛劇をやったことを覚えています。

―それは紅テントのような前衛劇を生んだ新宿という街ならではの影響でしょうか。

いや、それより前だった。1967年だから紅テント(注1)の直前ですね。新宿に入ったばかりの一年坊主だったから、そういうのを見て影響受けたというよりは、すでに僕の中にそういうものがあったんでしょうね。もしかしたらゴダール(注2)などを見に行き始めていたかもしれませんね。

―ゴダールに影響を受けたということですが、演劇をやっても映画をやろうとは思いませんでしたか。

映画は当時とても興味ありました。同い年で麻布高校の原君というのがいて、高校生なのに8ミリ映画の映画祭で賞を獲ったのがきっかけで、一挙に都内の高校生達の映画熱が盛り上がりまして。それと新宿といえば映画館が沢山あった。安い映画館から高いアートシアター系の映画館まで沢山あって。僕の人生の中では高校時代が一番沢山映画を見た時期でした。

―見る映画はゴダールのようなヌーヴェルバーグが専ら?

ヌーヴェルバーグ(注3)は出来たばかりの作品をフランスから持ってくるわけでしょ、高い映画館でやるんですよ。もっと古い昔のアメリカ映画を見せる名画座なんかだと100円とか150円で一日3本も見られるわけね。それから新宿通りの一本裏の、中央通りだっけ、そこは日本映画ばかりかける映画館があって。武蔵野館という映画館で昔はそこはヤクザ映画ばっかりだったんだけれど、よく通っていました。

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―当時の坂本さんは学生運動にのめりこんでいて、中核派の戦士だったということになっていますが。

うん、一応新宿高校は中核派(注4)の拠点のように思われていたらしいのですが、実際にはそんなにはいなかったですね。むしろ戸山の方が中核派の拠点でした。新宿は色々いて、戸山と青山がなぜか中核の拠点で。僕達は雑多ですね。セクトに入っている人もいましたが、新宿や駒場はわりと雑多で。その雑多なのが集まっているのが全共闘だったんです。中には既存のセクトには入りたくないっていう人間もいて、まあ僕もその1人だったんですけれど、沢山いたんですよ。やっぱりセクトに入るってことは一つの組織の手足になるようなことなので。歯車に入っちゃう、そういうのは嫌う傾向がね。

―組織がお嫌いなんですね。

そうですね。

―では坂本さんイコール中核派の伝説は誤りと。

違いますね。

―もう一つの伝説、「バリケード封鎖された新宿高校の音楽室で、ヘルメットをかぶったままピアノの前に座りドビュッシーを弾いていた」というのは?

多分それは四方田犬彦(注5)の作り話だと思う。あるいは四方田が誰かから聞いたのかもしれない。その噂があるってことは僕も最近知ったんですけれど、でも自分が覚えていないだけであの時代、そういう気障なことをしたかもしれない(笑)。していない、とは断言できません(笑)。

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―印象深い先生は?

面白い先生は何人かいて、その中でも一番印象に残っているのは現国の前中先生。一年坊主で入学して最初の授業が現国で、そこにやって来たのが前中先生だったんですけど、言うことが過激でびっくりして。いきなり「俺はお前らには何の興味もない!」とか言うのでかっこいいと思って。授業が終わってすぐ職員室まで追いかけていって、「僕、今の授業を聞いていた坂本といいますが、あなた面白い」とか言って、すぐ友達になったんです。身分は教師と生徒ですけど、高校在学中に一緒にスキー行ったりとか、もう時効だから言ってもいいと思うんですが、一緒に酒を飲みに行ったりとか(笑)、ずっと友達づきあいでした。だから学校を離れている時はお互い呼び捨てで、向こうは「サカモト」、僕は「マエナカ」と呼んでいました。

―お若い先生だったんですか?

いや、四十才くらいだったのかな。めちゃくちゃ頭の良い人で、面白くて弁が立って。先生同士の間でも人気があって、前中の周りに集まっている先生達が五、六人はいましたよ。その先生達がたむろっている場所が美術教官室だったのね。美術教官室は美術室の奥に独立してあるので、みんなの目があんまり届かない(笑)。好きな事ができる溜まり場になっていたの。普通は体育の教師なんかだと右寄りだったり保守的な人が多いんだけど、体育の教官なんかもみんなその“前中派“なの。仲間が多くてそこはものすごく楽しかったです。

―美術教官室といえば、美術の吉江先生は覚えていらっしゃいますか?

吉江先生のことも大好きでしたよ、彼も前中組ですし。僕らも暇があるとしょっちゅうそこへ言っていました。

―先生と生徒の間柄で、今では考えられないくらい濃密な関係だったのですね。先生ではありませんが、坂本さんの先輩にあたる作曲家の池辺晋一郎(注6)さんとは直接の交流はありましたか?

ありました。音楽の先生だったと思うんだけど、「君の五年上に池辺君てのがいて、芸大の作曲科に入ったよ」と。なぜかその先生は僕が作曲をやっていることを知っていて、会いに行けっていうから会いに行ったの。一年坊主の時に。それでお宅にお邪魔して随分長く、何時間も話をしました。彼が大学二年で僕が高校一年。池辺さんが新宿高校のオーケストラ部を作ったんですね。そこで曲を作ったり選んだり、指揮をしたりと。まあそれは池辺さん本人の役にも立っていたことなんだけど。お宅にお邪魔してお話をうかがった時に、曲作っているの?って聞かれたのでその頃作っていた曲をパラパラと弾いたら「いいね」と。「今芸大受けても、それだったら受かるよ」と言うんで、「やった!」と。それから全く勉強しなくなっちゃった(笑)。池辺さんのせいなんですよ、それ以降全く勉強しなくなっちゃったのは。でも芸大は全然楽勝でした。

―その音楽の先生ですが、野村先生(注7)の事だと思いますが覚えておられますか?

確かそんな名前だったですね。

―今でもブログを書かれたり、チェンバロ制作の第一人者として活動されています。

えっそうなの?本当?今おいくつくらいなんだろう。

―77才だそうです。

・・・若かったんだねえ当時。三十代ですね。へええええ・・・そうですか。 その野村先生に作った曲を聴かせてよと言われたこともありまして、君のは器楽的だね、要するに声楽的じゃないって意味ですね、器楽的な音楽なんだね、と言われたのを覚えていますね。

―部活について。中学時代はバスケット部とブラスバンド部所属だったそうですが、楽器は?

チューバ。

―なぜチューバを?

中学に入ってすぐ、音楽の先生が僕を名指しで「チューバの口だね!」といきなり言うわけ、それでオルグされて仕方なく(笑)。僕はもっとかっこいいトランペットとかトロンボーンとかいいなと思っていたんですけど。チューバって泥臭いんですよね。重たくて大きくて。チューバは殆どメロディは吹かないわけですから、ずっとド・ソ・ド・ソとか。一番縁の下の力持ちなんですね。どんくさいなあ、と思いながらしょうがないからやってましたけどね。

―高校に入ってからは?

チューバは続けなかった。でも合唱部に入っていた気がするんですよ。僕は自分は歌がヘタなのを知っていたのであまり歌に興味はなかったんですが、合唱部で指揮をしていた記憶があります。今はどうか知らないけれど、僕の入った頃の新宿高校は3対1の割合で男子が多かった。女子はクラスに十人ちょっとしかいなくて、その割には合唱部は女子が多かったんですね。それで僕が一年坊主なのに曲を選んで指揮をしていました。ああそうだ、夏の合宿にも参加した覚えがありますね。だからやっぱり入っていたんだと思う。

―今の新宿高校の音楽部はレベルが高く、必ずコンクールで上位入賞しています。今年は東京都合唱コンクールで金賞を受賞しました。

ええ!!本当!!すごいなあ。

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―当時の新宿生の生活を。

さすがに一年坊主の時はちゃんと学校へ通っていましたが、二年生になると世の中が騒がしくなりまして(注8)。日本で一番騒がしいのは新宿ですから、やっぱり外がワサワサしているので僕らの気持ちもワサワサしていてですね。あと新宿には悪い魅力が沢山ある(笑)。ま、魅力的なものというのは悪いものですから、そういうものが街に沢山近くにあるってことでどうしても足が外に向いてしまうんですね。学校の外に。だからしょっちゅう抜け出しては喫茶店に行ったり、ジャズを聴きに行ったり、映画を見に行ったり、いろんなことしてました。人生で一番忙しかったですね。三年生になると、朝に家を出て京王線に乗って新宿まで着くとですね、まず喫茶店に行っちゃう(笑)、学校には行かないで。「ウィーン」ていう中央通りにある小さい喫茶店で、今はもうなくなっちゃいましたけれど。そのウィーンの二軒先あたりに有名な「風月堂」(注9)っていう喫茶店があって、そこはいわゆるなんでしょうね、ブラック・ジーンズを履いたアングラ詩人とか、前衛芸術家風の人達が集まるので有名だった。でもそこは僕らは毛嫌いしていて。「かっこつけちゃってさ」と。かっこつけてるのはダサイという気持ちがあったので、何の変哲もない喫茶店ウィーンに集まっていたんですね。やっぱりそこに午前中ずっといて、お弁当もそこで食べちゃって、ホームルームが午後一番にあるとそれだけ出席して、みんなに問題提起をしたりとかですね。

―どんな問題提起を?

当時ですと沖縄返還とかベトナム戦争についてですね。

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―社会意識が強かった高校生が沢山いたのは坂本さんの世代が最後で、その後は社会を憂えて行動する高校生というのは消えてしまい、何十年が過ぎました。それが3・11以降、再び子ども達は社会に目を向けて真剣に考えるようになったように見受けられます。

3・11の後の日本の社会をみていて僕が思う事。十年くらい前に「ディジタル・デバイド」(注10)という言葉があって、コンピュータを持っていてディジタル・テクノロジーに近しい人と、それを持っていない人というディバイド、そういう分け目があるという言葉が流行ったんですけど、今はインターネット・ディバイドになっていると思う。インターネットにアクセスして情報を取れる人と、一般の新聞やテレビからしか情報を得ていない人、というディバイドが非常に広がっている。それがどっちがいいとか悪いとかの話ではなく、勿論インターネットも間違った情報は沢山あります。そこでは何が正しくて何が間違っているかを一人一人が見抜かなければいけない。そういうリテラシーが必要であるということです。ネットにアクセスして自由に情報を取ってこられるという環境は実はとても大事です。民度を上げる、民主主義を根付かせるという意味でも非常に大切なんです。それと社会的な事象だけでなくて、科学や文化、歴史、音楽などの情報も沢山あるので、ネットっていうのはネガティブな面もあるけれどやはり僕達の生活にはとても必要なものです。あとは自分達がそれをどう使いこなすかということですね。

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―今の子供を取り巻く環境でディバイドを見ると、子ども達はネットから情報を取捨選択し、一方大人達は新聞やテレビといった既存のマスメディアによる情報を受身的に仕入れている、こういうディバイドが生まれています。でも子供が「お母さん、その情報は間違っているよ」「お父さん、ネットの情報が必要だからパソコン買って」と言ったところで、親/子、大人/子どもの力関係でいけば、子どもは決定的に不利なわけです。子どもは子どもの立場でどのように社会や大人と対峙していけばいいのでしょうか。

今年、日本にとっては3・11という震災がとても大きな出来事でしたが、世界に目を転じてみると今年の最初から中東で「アラブの春」「ジャスミン革命」と呼ばれる若者達が主体となった社会変革が起きて、多分この先も続いていくと思うんですけれど、それに刺激を受けて今度は先進国側のアメリカやヨーロッパからも「オキュパイ・ウォールストリート」など世界の経済システムに疑問を唱える若者達が出てきた。日本の若者は、そうやって自分達が考えていることを声にして表すことがどうも不得手でね。でも僕の頃は、それこそ毎週末にデモがあって、中には中学生なんかも参加していたりしてね。その中の一人に元マイクロソフト会長の古川さん(注11)がいるんだけれど、僕より二つ年下で麻布中学だったんだけどデモに来てました。これは後で話して判明したんですが。そんな元気のある子どもだからこそ世界のマイクロソフトの会長にまでなったんでしょうね。今は慶應で教えてますけれど。そのように個人の関心だけに引きこもるのじゃなく広く世界に目を向けて、できたらちゃんと日本を飛び出して、旅をして、目を広げて言いたい事を言う。表現する、ということが大事でしょう。 耳を貸さなかったり、反対意見を言う大人や親は当然いるのですが、そこも大事。そこを乗り越えることが大事です。必ず反対意見というのは存在するわけで、喧嘩になることもあれば、反対意見は反対意見としてきちっと認め合って喧嘩にならないやり方もあるわけで、そこも大事な学びの一つですね。

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―今ですと大きな対立は原発推進派と反対派ですね。これだけ大きな反原発の声が上がっているのにも関わらず、日本は再び推進派の方へ揺れようとしています。

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原発を推進したい人達もまだいるわけですけど、お互いに盲目的になるのはクールダウンして、ただ反対するのではなく推進派の人達はなぜ推進しなければと考えるのか、それを科学的に冷静に分析して反対意見を述べていく姿勢が必要です。たとえば高校生だったら高校生同士で推進派のグループと反対派のグループに分かれてちゃんとディベートをする。ディベートをするにはものすごく学ばなきゃいけない。知識も得なきゃいけない。それをやってみるといいです。そうするとお互いに反論があるんだという前提で話し合う。感情のぶつけあいではなく話し合うという訓練を積むことが大切です。

放射能の問題はチェルノブイリから二十五年経ってももいまだよくならないわけで、これも直接子ども達の将来に関わる問題なので、十代の子ども達の声は十代の子ども達の声として社会にきちっと届けるべきでしょうね。幸いインターネットという手段もあるので、昔よりもはるかに自分の声を広げるツールというのか、チャンネルが多くなっている。僕らの時代はデモしたり、ガリ版を刷って自分で配ったりしてね。意見を広げるのはむしろ今の方がやりやすい。だからあとはやるかどうか、ですね。

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―今日は「こどもの音楽再生基金」のチャリティーコンサート、またNHKの番組「スコラ」など、ここ数年の坂本さんの活動は子どもに対するアクションが多いように見受けられます。

どんどん歳とってくるとね(笑)、自分の人生の残り時間が少なくなって色々見えてくるわけで、そうすると未来のこと、僕が死んだ後のことが心配というか気にかかるわけですね。次世代、未来世代のことがとても気にかかってくるものなんですよ。僕も年取って初めて知ったんですけれど、人間ってのはどうもそういう生き物らしいですね。なので音楽もそうだし、自然や環境の事もそうだし、未来を担う子ども達のことはたとえ自分の子じゃなくてもとても気にかかります。

でもね、今の子ども達にはコンピュータがあるしインターネットがあるので、知ろうと思えば本当にいくらでもできる。昔と比べて隔世の感があります。そういう意味では本当に何でも簡単になった。だから興味さえあれば何でも学べる。だけど人間ていうのは不思議な生き物で、情報過多になると不思議と知識に対する意欲というのはなくなり、怠慢になっていくんです。ものを作るってことは、何かの欠落感があるからこそ何か作りたいわけで、お腹が空いたから食べたい、欠落感があるから作りたい。情報過多だと自分から何か作ろうとは思わなくなる、ということも起こるんです。今年亡くなったアップルのスティーブ・ジョブスが言っていた言葉ですけれど、”Stay hungry, Stay foolish.” 欠乏していろ、おなかをすかせていろ、バカでいろ、というのは本当に大事だと思います。スティーブに先に言われちゃったんで残念ですけれど(笑)、僕もそのように感じています。

―高校生に今これは読んでおけという本があればお薦めください。

特に高校生が対象というわけではないのですが、 3.11の後だからこそ読んでおきたい本を、友人達と集まって皆で意見を出し合って編纂した本があります(注12)。まさに今にぴったりなのでぜひ読んでみて下さい。

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―新宿高校の理念は創立時から一貫して「全員指導者たれ」ですが、原発問題、環境問題、震災後の様々な運動を率いる坂本さんも確かに社会のリーダーですね。

僕はリーダーじゃないですよ、全然。人を引っ張るのは本当に苦手でしてね。若い頃は、というか本当はつい最近まで自分にしか興味がなくて、先程子どもの話が出ましたけどそれもこの十年の事で、それ以前は自分は何ができるかという、ただそれだけでやってきた。でも、それでも一つの事をずっと続けてやっていけば、たとえ小さい世界かもしれないけれど、何かにはなる。人の上に立つということは全然考えたことなかった。ただ、僕なりの格言がひとつあって、よく親からは「上ばかり見てはいけない」、つまり贅沢を望んではいけないという意味で聞かされたと思うんですけど、僕の格言は「下を見るな」です。どんなに偉くなっても上には上がいる。今の僕にとっても、超えられないような上の音楽家や立派な人が沢山いる。下を見たら「オレも結構上のとこまで来たな」と安心・安定してしまうかもしれないので、絶対しない。下を見て満足するな、と。それはどういう世界でも通用すると思います。

―最後に新宿生にひとことメッセージを

平凡ですけど旅をして、自分と自分の属している社会を外から見る目を養ってほしい。それは地理的な外、という意味でもありますし、同時に時間的な外でもあります。過去を知って今を知る、あるいは未来の事を考えて現在を知る。これは同じことかもしれませんね。

―本日はありがとうございました。

2011年12月28日 ヤマハ銀座サロンにて インタビュアー:松浦まみ(広報)

(注1) アングラ演劇の劇作家・唐十郎が率いた伝説的演劇集団「状況劇場」の通称。花園神社の境内に赤いテントを建てて芝居を上演した。新宿西口公園でのゲリラ上演は二百名の機動隊に包囲されながらの公演となって社会を騒がせた。

(注2) ジャン=リュック・ゴダール。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として熱狂的な支持を受けた映画監督。YMOのヒット曲「中国女」「東風」「マッド・ピエロ」はゴダールの作品名でもある。

(注3) 1950年代後半、フランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で活躍していた若手作家達が次々と革新的で瑞々しい映画を発表し、彼らの到来を<新しい波>=ヌーヴェルバーグと呼んだ。代表的な監督はゴダールの他、フランソワ・トリュフォー、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール等。

(注4) 新左翼セクト「革命的共産主義者同盟全国委員会」の通称。武闘派のセクトでしばしば暴力沙汰を起こした。

(注5) 比較文学者。映画史家。高校時代に全共闘に参加。当時のエリート高校生達の様子を描いた自伝『ハイスクール1968』に高校生時代の坂本さんについての記述がある。

(注6) 作曲家。黒澤明の映画作品、NHK大河ドラマ、アニメ『未来少年コナン』など、クラシックからエンタテイメント系までその作品は幅広い。NHKの音楽番組「N響アワー」では番組の顔として13年間司会を務めた。新宿高校管弦楽部の初代部長。

(注7) 野村満男。古楽器研究者。音楽教師として新宿高校に在職中、池辺晋一郎/坂本龍一という日本を代表する二人の作曲家を教え子に持った。

(注8) フランスでは五月革命、東欧ではプラハの春が起こり、世界中で学生運動の嵐が吹き荒れた。国内では国際反戦デーに新宿駅を学生が占拠する事件が起きた。

(注9) 1964年から1973年まで存在した、新宿文化の象徴ともいえる喫茶店。ありとあらゆる文化人と芸術家が集まり、外国のガイドブックには「日本のグリニッジ・ヴィレッジ」と紹介されるなど、若者文化の聖地として名を馳せた。

(注10) 「情報格差」と訳される。

(注11) 古川享。日本法人マイクロソフト株式会社の社長、会長、及び米マイクロソフト社のヴァイス・プレジデントを歴任。現在は慶応義塾大学教授。

(注12) 『いまだから読みたい本 ― 3・11後の日本』 編・坂本龍一 発行・小学館

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ライヴ直前の忙しい合間をぬってインタビューに答えて下さったお礼に、坂本さんと新宿高のコラボTシャツ「skmt×snjk」のスペシャル新宿Tをプレゼントさせて頂きました。坂本さん、本当にありがとうございました。