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林洋和氏インタビュー(同窓生シリーズ ウェブ版)

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林 洋和 さん(18回生)
東大法学部卒業後、通産省へ入省。自動車課長、内閣総理大臣秘書官、通商政策局長などを歴任後、現在は東京ガス株式会社副社長執行役員。

* 林さんが高校生だった頃の時代背景:
当時の日本は高度経済成長のまっただ中。国全体が明るい未来に向かって汗水流して頑張っていた頃です。東京オリンピックは林さんが高校2年生の時の事でした。
その頃の新宿高校は骨太な気風が漂い、学生運動が最も盛んな高校の一つとして名を轟かすと同時に、毎年100名近い東大進学者を出す全国屈指の進学校でもありました。

―まず新宿高校と聞いて思い出すのは?

「グラウンドと裏の新宿御苑ですね、僕は野球部だったから。グラウンドは狭いからそこにラグビー部なんかも一緒くたになって練習していました。ボールが新宿御苑の中に入ることもしょっちゅうでしたよ。まあ抜け穴は沢山あったし、乗り越えても行けたので取りに行くのは簡単でしたけどね。新宿御苑は今と違ってあんな隅っこまで人が来ないし、ひっそりした場所でした。」

―1960年代と、50年後の今の新宿生ではおそらく気風が全く違うと思うのですが。

「やっぱり時代背景だと思いますね。昭和38年に入学、卒業したのが昭和41年ですから。時代背景と申し上げたのは高校生でも学生運動が流行っていた時期です。60年安保が終わって70年安保前の間ですからね、そういう意味では戦後のドサクサ・貧困が終わって、ある程度生活のゆとりが生まれ、政治も経済も落ち着いてくる中で、戦前の反省とか批判とかね、そこから照らした今の制度への批判、そういうものが芽生えてくる時期でしたね。」

―15歳、16歳、17歳という年齢の子ども達が当時はすでにそんな事を考えていたのですか!

「いやいや、1年生として入学したら、3年生が授業サボってなんだか女の子と二人で(笑)何やっているんだろうと思ったら、それは特定の政党に属している人達なんだというのを聞いて、そういうのもあるんだなあと(笑)。後でだんだんわかってくるんですけどね、15才の時はそんなものでしたよ。大学紛争が起きたのは僕らが大学に入ってからで、安田講堂は昭和44年の3月だったから、僕らが高校生だった昭和39〜40年あたりにはすでに大学生と労働者を主体とした新しいセクトが出来ていました。緑や青のヘルメットかぶってね。既存の政党に飽き足らないというか批判的な大学生や労働者が出てきて、様々なセクトが勃興してきた時代でした。」

―素朴な野球部の生徒から見るとそれはかっこいい、という感じでしたか?

「実際に学生運動に関わっていたのは少数でした。大半の生徒はクラブ活動を一所懸命やって体を動かすとか、授業をサボるとか(笑)。学校の近くに「ACB(アシベ)」というジャズ喫茶があったんですが、学校から歩いてすぐだったからね、授業サボってアシベに行くとか、あるいはスポーツをやるとか、まあ勉強はちょろっとやるとか、そういうのが大半でした。カール・マルクスがどうしたこうしたとやっていたのは少数ですよ。」

―当時の高校生の間では音楽はジャズが主流?

「いやいや、ジャズというよりはね、授業をサボって聴きに行く、そのサボるという行為が楽しかったんですね。あるいは授業をサボって部室で麻雀をやることに意義がある。別に麻雀自体が好きだったわけでもないんですよ。」

―大人の真似をすることがかっこよかったと。

「まあ、そういうことですよね。」

―不思議ですね、今の子ども達には大人の真似をしようとか、早く大人になりたいという感覚はあまり見受けられません。

「社会が豊かになったこともあるんでしょうね。僕らは親世代を見ていましたからね。戦争で生き延びて、一所懸命働いて、昭和32年頃かな、テレビがきて。一番印象的だったのは洗濯機。母親が一番苦労していた家事は洗濯で、冬場は本当に辛そうだった。冷蔵庫も当時は上に氷を入れて冷やして使う冷蔵庫だったんですよ。そういう生活の豊かさ便利さに伴って、これは素朴な感性だと思うんだけど、母親の負担が軽くなるということは非常に素晴らしい事なんだと思いました。母親の負担が軽くなることによって家庭に笑いが絶えないとかね。」

―今の時代は生まれた時から恵まれた環境でそれが当たり前だから、それ以上頑張ろうとか貪欲な向上心があまりないのでしょうか。

「そう意味では説教じみて言うと、戦後の教育の中で一番欠落していたものは何かと考えた時に、人文科学を軽視したことではないか、と僕は思っているんですよ。哲学、歴史学、文学、芸術、宗教学といったものですね。明治時代というのは人文科学を重視した時代だったのだけど、戦後は殆どそれらは学ぶ対象ではなくなってしまった。せいぜい歴史の年号を覚えるとかね。社会全体が自然科学と社会科学さえできればいいんだという風潮になってしまって、歴史から学ぶだとか、文学を通じて大人になっていくだとか、絵画や音楽に触れて真・美・善といった感覚を養うとか、あるいは悲しい事があった時にどうするのか、祈るのか、願うのか、自分で行動を起こすのか。それらが多分、自分の価値観や世界観を形作ってくれるもののはずなんですよね。
それを戦後の教育はどんどんなくしてきた。自然科学と経済・法律などを中心とした社会科学を重視してきた、そこらへんに原因があるんじゃないかと思うんですよね。」

―林さん自身は高校生の頃にどんな本を読んでいましたか。

「白樺派かな。戦後の流れっていうのは特徴があって、それは朝日新聞であり、笠信太郎であり、丸山眞男であり、雑誌でいえば<世界><朝日ジャーナル>とかね。戦前の軍部を批判して社会民主主義的なものを志向する、平等だとか分配の適正だとか、そういうのがやっぱり当時の流行だったんですね。その流れでおそらく文学では戦前からの理想主義である白樺派、武者小路実篤の<新しき村>とかがはやりだったような気がします。現実に彼等がやってたことは相当ひどいのもあったんだけれど」(笑)。

―今、高校時代を振り返ると。

「楽しかったなあ。三十代、四十代、五十代になって振り返ってみるたびに、もう一度15歳に戻りたいと何度も思いましたよ。」

―では、現役の新宿生に向かって先輩として言いたいことは?

「一番目に、まず数学と国語と外国語の基礎的な勉強は絶対手を抜いてはいけない。これは後々の人生で非常に重要です。二番目には自分の好きな人文科学系の、歴史でもいいし、小説でも絵でも何でもいい、何か一つに興味を持ってやってごらんなさい。そしてこれは三番目だけれど、そうすることによってなんらかの自分の価値観、自分の生活の軸が生まれてくる。それを見つけなさいと。僕はそれに気づくのが遅かったから、大人になってからこれはいかんなあと思った訳で、歴史や芸術や宗教をちょろっと勉強したんだけれども、もっと若い時からこういうことがわかっていたら、もう少し他人にも優しく出来たのになあと思うわけですよ。あと十年早くこういう勉強をしておけば女房にも優しくなれたのに、子育てだってもっとうまくいっていたかもしれないとかね(笑)」

「大人になれる年齢がどんどん遅くなってきている気がしますよ。僕なんか自分で大人になったと思えるのっていつだろう、50歳くらいかなあ。大人になるって大変ですよね」

―そうですね、私も大人と言われる年齢になっても全く大人には思えません。何をもって人間は大人になったと言えるのでしょうか。

「結局大人になるって、他人に尽くすってことなのかなあ。まだそこがよくわからないんですよね。」

―林さんは東大法学部、通産省という道を進まれたわけですが、将来の進路を決めたのはいつ頃ですか?

「正直、16、7歳の子どもに将来なんて決められないですよ。本当に自分で決められる人がいたら凄いと思う。それは多くは家庭環境に左右されることで、まあ大学には行くもんだ、くらいにしか考えていなかったです。」

―では大学に行くからにはトップを狙え、という意識はありましたか?

「いや全くないです。勉強は好きじゃないけれどちょこっとは勉強しないといけないなあ、とかね、その程度ですよ。就職する時もそんなに考えなかった。当時は就職先で判断が分かれるとすれば組織の人間になるか、自由業的なものになるか、それだけだったんですよね。まだ個人で事業を立ち上げるっていう選択はない時代だった。弁護士だって今ほど人気なかったしなあ。」

―では官公庁に入るか、私企業に入るか、という選択?

「それもそれほど峻別されてなかったですね、大半の人が両方かけもちで就職活動してましたからね。」

―今の高校生は将来の進路を早く考えろとせっつかれるわけですが。

「今決めるのは無理だと思うなあ、ある程度自分で決められるようになるまで多様な選択肢をどこまで親が用意してやれるか、どこまで親に余裕があるかに尽きると思うんですけどね。本来は、社会が用意してやればいいと思いますが、そういう風にしてやることしかできないし、いつ自分で人生を決めればいいのかという、ある程度のモラトリアムは仕方がないと思いますね。僕なんか18歳になってもどこの大学行けばいいのかわからなくて、親父が「おい、お前医者にならないか」とか言うわけね、僕は血を見るのはイヤだからと医者だけはイヤだと言ったんだけど。当時は文系から理系への変更は意外に簡単だったんですよ。」

―大学卒業後の進路決定は。

「当時は大学紛争があって、半分くらいの学生が留年したんですね。その間何やっていたかというと麻雀と競馬(笑)。皆ダラダラ過ごしていましたよ。人間、ある程度尻に火がついた状態にしておかないと堕落するものなんだな、ってわかりました。
それで卒業後は役所へ行くか民間会社に行くか。民間会社に行っていたらそれも一つの選択肢ではあったかな程度の事で、今までの人生にそう後悔はないから、あそこであの会社に勤めてればよかったとかいう思いは全くないですけどね。22、23歳の頃でも自分が何になりたいかよくわかってなかった部分もあるしね、15、6歳の子にお前将来どうするんだ、考えろ、なんて言ったってね、できないですよね。」

―今では高1の秋には文理選択をすることになっています。

「僕はね、それが間違っていると思うんだ。世界のオピニオン・リーダー的な人の人生を見ていると、理系出身でたとえば歴史に入って行く人などが多いんですよ。日本だけですよね、この学部に入ったからこの人生だよっていうのは。理系・文系が自由に往来できるシステムが一番いいんだけどね。僕らの時代は高校で文理に分けたクラスは1年から3年まで一切なかったですね。自分の適性が何かなんていうのを16歳の秋に決めるのは難しいことだよね。でも制度がそうなっている以上は仕方ないから、選択肢を幅広く残してやるのが社会や親のできることかなって。でも結局親の最も大きな役割は、子どもが一人で生きていく力をつけてやる事なわけですからね。」

―通産省時代を振り返って。

「一つの大きな流れは国際化でしたね。今でもそうですね。一番残念だったのは、日本の教育制度がそれに追いついていけなかったこと。インフラの広い意味での弾力性の欠落ですね。その中でも子供達の事を考えるとやっぱり英語教育が充分にできなかったことですね。東京ガスは国際化とはあんまり関係ないけれど、電機メーカーにしても自動車メーカーにしても「うちは4、5割が海外の売り上げなんですよ」なんて言っても、じゃあ組織や人材が国際化しているかといったら違いますね。」

―林さんはニューヨーク勤務をされていますね。

「ニューヨークは懐が深いですよね。だって僕がニューヨークに着いたその日に道を訊かれるわけですからね(笑)、なんという国なんだろうと。歩いている人達がいろんな人達だからなあ。ただその懐の深さが一体なんだろうと考えた時に、それは<多様性>なんだと思うんですよ。
日本は多様じゃない。
どこの会社の就職試験でも、大半の学生は同じ感じですよね。会社の人材にしても、大学で採る人間にしても、高校で採る人間にしても、いかに多様な人間を採って、それぞれ相手を刺激するか。多様性が勝負なんですよね。
日本で難しいのは、多様性って何だ?ってことなんです。例えば、東大であろうが京大であろうが慶應であろうが東工大であろうが、殆ど変わらないわけですよ。そうすると変わるのは、例えば小・中・高の時に男子六年制や女子六年制にいたのか、あるいは共学にいたのか。僕は共学の方が絶対素晴らしいと思ってるんですよ。男ばっかり女ばっかりの六年制で異性に興味を持つこの時にね、男女分けるなんてこれは尋常じゃないと。しかし、共学かどうかというのもたいした違いはなくて、○○島の出身者とか、十年以上の海外生活をした帰国子女とか、外国の大学卒業とか、ともかく多様な人を集めることが大切なのだと割り切らないと。日本は人口が減っていくから最後はもう移民しかないと僕は思っているんだけど、移民の流入に伴ういろんな副作用や悪影響を耐え忍ぶ度量が日本人にあるかどうか?フィリピンとインドネシアの看護婦問題にしても、もう少し前向きな方法はなかったのかと思いますよね。
だから新宿高校はぜひとも多様な人材を育てるような教育をしてほしいですね。」

―先生との関係は?

「大半の先生は尊敬できる先生でした。プロとしての誇りみたいなものがあったと思いますね。 僕らの時の体育の先生はね、オリンピックの体操の選手だったんですよ。塚脇先生といってね、メルボルンオリンピックに出た選手でした。」

―最後に新宿生へのメッセージを一言お願いします。

「さっきも言ったように、一に基礎勉強をしっかりやる。二に人文科学系で自分の好きな事を一つ見つけてのめり込む事。三にそういうものを通じて自分の価値観・世界観や軸について考える事。
たとえば、僕は特に宗教には興味なかったんだけど、ペルーで人質事件があった時に、神父さんが出てきて人質解放の交渉をしてました。日本とは随分違いますよね。そこでいろいろ調べてみました。黒人奴隷解放も良心的兵役拒否の概念をうちたてたのも、一つのある宗教なんですよ。プロテスタントのクエーカーっていうね。
やっぱりいい本を読みたいと思いましたね。埋もれているいい本を探し出してね。ポピュラーなのだったら、石光真清とかね。
あとは僕はツヴァイクが好きでした。今どき読む人は誰もいないですね、シュテファン・ツヴァイクなんてね。ツヴァイクの歴史ものなんてのは小説より面白いんだけどね。
それら埋もれた作家の中にジェームズ・ミッチェナーというアメリカの作家がいるんだけれども、『南太平洋』っていう小説や映画、知っているかな?彼の『チェサピーク物語』という小説は、イギリスやフランスからアメリカ大陸に渡った移民達が、一代目二代目三代目とどういう苦労をしてアメリカ先住民と共存、あるいは争いながら、どのように自分達の街を作っていったか、というアメリカの歴史物語なんだけどね。彼がクエーカー教徒なんですよ。その中に南部の奴隷をクエーカー教徒達がカナダに逃がすプロセスが描かれてました。
埋もれていてもいい本はたくさんある、と最初に思ったのは多分そのミッチェナーの本に出会った時ですね。もっとも、僕はクエーカーではありませんが。
あとは、例えば中近東の歴史をみる場合、我々が学んだ事は西欧人の眼から書かれたものが多いのです。従って見方も学ぶ必要があると思っています。例えば「アラブが見た十字軍」とか。常に歴史は両面から見た方がいいですね。
最後に是非、H.G.ウェルズの『世界史概観』を読んで、自分の興味のある時代にのめりこんで欲しいと思います。」

―本日はありがとうございました。